Sea of Tranquility

しずかのうみ

一物理学者が観た哲学 Philosophy observed by a physicist

今年もまた、今年読んだ一番好きな論文2019にエントリしてしまいました。

adventar.org

2017年以降3年連続です。我ながらすごい。枠が埋まっていないというツイートを読んで半ば人助けみたいな感じで参加した昨年とは違い、今年は読みたい論文があったので自主的にエントリしました。したのですが、すごく難しくて時間がかかってしまいました。けばぶちゃんごめん。

 

それでは早速私の好きな論文をご紹介しますね!

一物理学者が観た哲学 Philosophy observed by a physicist 

今回ご紹介する論文は、通称「谷村ノート」と呼ばれている110ページにも及ぶ超大作です。谷村ノートは、物理学者であり名古屋大学大学院情報学研究科の教授をされている谷村省吾先生が、哲学者と物理学者の「時間」「空間」に対する理解や表現があまりにも違うことについて、特に哲学者に対し問題提起をされたものなのではないかな、というように私は読みました。このノートが書かれたきっかけはそもそもこちらの書籍です。

〈現在〉という謎: 時間の空間化批判

〈現在〉という謎: 時間の空間化批判

 

この本は物理学者と哲学者が異なる立場から同じテーマである「時間」について書いた論文集となっています。物理学者が書いたものに哲学者がコメントを書いたり、またその逆もあったり、コメントに対する応答があったりと、まるで目の前でシンポジウムが行われているかのような臨場感さえ覚えるとてもエキサイティングな本です。それもそのはず、この本はもともと2016年に同じテーマで行われたシンポジウムでの議論が元になっていたりするわけなのですが、今回の論点には直接関係がないのでそこは割愛します。

谷村先生はこのうちの第一章とそのコメントへの応答、及び第四章へのコメントを書かれました。それでもなんだか哲学者たちが谷村先生のお話を理解したのかしなかったのか、先生は釈然としなかったのでしょう。続けて公開されたのが谷村ノートでした。谷村先生はノートのまえがきにこう書かれています。

しかし、異分野交流の常であろうが、互いの問題意識の違い・言葉の違いは容易には乗り越えられないものがあった。差異を認めることにこそ交流の意義があったとは思うのだが、自分の見解は誤解されたままでいるような気もするし、相手の言っていることをとうとう最後まで理解できなかった部分もある。最終的な産物としての書物の中では私としては表現しきれない思いや疑問が残った。

このブログではとても全てについて見ることはできませんので、谷村ノート第四章の前半部分を中心にご紹介していきます。第四章は「総括」であり物理学者から哲学者への提言とも言える内容です。各節についてできるだけ短く要約し、議論として興味深い箇所を引用し、哲学履修者としての哲学に関するコメントを付す形で進めていきますね。

4.1 人間の言葉と論理

「人間の言語表現には限界があって、自然科学で議論される現象や理論について精緻に言い表すことはできていないのに、哲学者はそんな限界だらけの言語表現に依存して曖昧なことを言っているのでは?」

私が哲学を勉強し始めてよくも悪くも面白いなと思ったのは、可能世界*1や双子地球*2のようにちょっとSFっぽい設定を持ち込むところでした。こういう荒唐無稽な話をするときには、少なくとも地球上の物理法則にはあまり従わなくてもよさそうなので、曖昧な言語表現が許される場合がありそうです。(←もうこの書きぶりが既に相当曖昧)

ただ科学哲学の文脈ではSFばかりを語るわけにもいきませんから、科学哲学者は当然物理学者と同じ重みで言語を扱うことを要請される場面があるでしょう。(あくまでも私の見解ですが)(というか分析哲学なら許されるのか?というのは議論してみたいですね)

「実験や観察は哲学の方法ではない、言葉と論理が哲学の方法だ」と言われるなら、そうかもしれない。しかし、それはいまや時代遅れの、錆びついた、お粗末で偏狭な方法である。

谷村先生はこうコメントされていますが、新しい分野としては実験哲学というのが既にあります。

www.cape.bun.kyoto-u.ac.jp心理学の実験がメインなので再現性には疑問がありますが、言語だけを用いてきたのが旧来の哲学の方法だとすると野心的な試みであると言えます。このような形で実験や観察を哲学の方法に持ち込んだらどうなるのか、何を考えるときに実験や観察が有用なのか、というのはある意味思考実験になってしまうかもしれませんが、ちょっと考えてみたい課題になる気がします。

4.2 実在論争のマナー

「物理学者は実在性ひとつとっても定義を確定してから議論を開始するが哲学者は実在という言葉にそこまで明確な定義を付しているのか?」

先ほどの話にも関連するのですが、哲学は「これは絶対実在」「これはどう考えても非実在」というように分類したり非実在なものを排除したりということ「だけ」を考えているわけではないように、初学者の私は捉えているところがあって、物理学者からこの点を指摘されると弱いかも…と一歩引いてしまいます。

ベルの不等式は、このように定式化された実在概念と(ここでは詳しく述べないが)局所性概念から演繹され、実験によって否定されている。だから、スピンの値の実在性か局所性のどちらかは偽でなくてはならない。実験は何度も手を替え品を替え行われているし、それでもさまざまな抜け穴の可能性(本当は実在性も局所性も真なのだが、実験のミスによってベルの不等式が破れているように見えている可能性)がしつこく指摘され、そのような抜け穴もきちんと理論的に定式化・分類され、すべての抜け穴をふさぐための超絶技巧とも言えるテクノロジーも開発されて、より確実な実験が行われている。

哲学も、ゾンビまで持ち出して抜け穴を塞ごうとしているんですが、定義化や分類のためのテクノロジーは持っていませんね。「考えうるすべての可能性」の方向性が物理学と哲学ではまるで違っているのがここで齟齬を生み出す遠因なのでは…。ただ哲学の分析方法について

「○○がpass する」的な言語表現は時間の実在的なありようを適切に捉えているわけではない、ということが言語分析の結果としてわかったとしても、時間の経過の実在性を肯定したことにも否定したことにもならない。

と指摘されたのはものすごくよくわかる、と膝を打ちました。

4.3 哲学の役割

「テクノロジーの発達した現代において、哲学が果たしうる役割はどれほどのものなのか。哲学は今でも世界の真理を解き明かすことのできる分野として成立しているのか?」

私は問いを立てるのがへたっぴで、指導教員の先生をたびたびがっかりさせてしまっています。この節では谷村先生が哲学の問いの立て方についてご自分の考えを書かれているのですが、ここは本当にすごいな、と感嘆しました。

結果的には、哲学は「ここに面白い問題がある、答えを知りたくなる疑問がある」という問題発掘・注意喚起の役を果たし、さまざまな学問の種を撒き、苗を育てる「苗床」のような働きをしてきた

ことをしっかり認識された上で、哲学には歴史的価値はあるけど今の時代にはもう不要なのではないか、そして

世界の真理を知りたいと思うなら、私は哲学はやらない。ストレートに科学をやればよいと思う。

と結論づけられています。

私としては、そう言い切られてしまうと「そ、そうなのかもしれない…」と怖気付きそうになるのですが…。問いの立て方がなってない私が指導教員に「こういうことに興味があるんです」と相談すると、去年くらいまでは「それが知りたいなら哲学じゃなくて自然科学をやったらいいんじゃない」と言われたりもしていたんですが…。(これは親切で言われたのかもしれないけどその時はけっこう凹みました)

では今の私は真理を知るために理転して物理学なり生物学なりを専攻すればいいと思っているかというとそんなことはなくて、理論や実験や観察で得られた結果をもっともっとつきつめて、過去の議論を掘り起こして、理論や実験や観察で見えてこないところを探るのが科学哲学の問いの立て方なんじゃないかな?と思うようになってきました。それで見えてくるものが世界の真理かどうかはわかりませんけれど。

そして今の私は、哲学は世界の真理を探究する学問というだけではなく、世界の真理が描かれた絵画があったとしたらその背景なのではないかなと思うようになってきています。だからこの点については谷村先生に弱く反論したいと思います。

4.4 物理学と直観

「哲学は物理学に対して実験や観察によって直観を否定することを期待しているのか?」

私が補足したとしてそれが正しいかどうか甚だ疑問ではありますが、この節ではこの部分

それはさておき、森田氏は物理学の目的を取り違えている。森田氏は《「太陽が地球の周りを回っている」という直観の否定ほど、現在の物理学は明確に「時間が経過する」という直観を否定できているのだろうか》と述べているが、直観を否定することは物理学の使命ではない。我々が経験・観測する世界に秩序・法則性を見出すことが物理学の目的である。

について一言だけ。森田先生はここで物理学に対して直観を否定することを直截的に期待したのではなく、「直観を否定できるような秩序や法則性を見いだせているのか」という点に疑問を呈したのではないかな、と感じました。このあとに出てくる

物理学は直観を否定するためにあるのではない。物理学は、直観を修正し補強するのである。

という言明には共感するところがありますが、おそらくここは単なる言葉の行き違いもあったのではないだろうかと思います。

4.5 哲学者と物理学者の相違点

「スタートかゴールか、属人的か本質重視か」

いつまで経っても「主義」間の論争に決着が着くことがなく、だらだらと生ぬるい議論を続けているように見える。

「だらだらと生ぬるい」とは私は思わないんですが、議論を終わらせる気がないのでは?と感じたことはあるので鋭い指摘だな!と思いました。最近では哲学は議論を終わらせることが目的なのではなくて、議論を続けることが目的なんじゃないかなって思えるようになってきたのであまり気にならなくなっています。「よし、この世界の真理がわかったぞ」と簡単に言えないのが哲学者の性なのではないかな…。

でも確かにナントカ主義がたくさんあって、どれも一言で説明しづらいので全体像を把握するのは難しいです。哲学専攻の人たちがそれぞれ自分の納得したナントカ主義に拠った議論をしていると「みんな自分の立ち位置がちゃんとわかっててすごいなあ」と思ってしまったりします。議論をする時は自分の拠り所になるナントカ主義があった方がやりやすいですね。ただし哲学者は議論を深めるために、あえてその拠り所に批判的な態度をとったりもする天邪鬼なので、誰々さんがナントカ主義擁護をしていてもそれが本心かどうかは実はわかりません。

この章についてはこの文章をご紹介して終わろうと思います。学問を志すことに文系も理系もないですね。

人と話をするときは、謙虚であり続けよう。相手の考えが足りない、とか、どうせ考えてもいないのだろう、などと、はじめから相手を侮るような先入観は持たないようにしよう。学問を志す者同士の対話であれば、互いの粗さがしをして相手の間違いや不備をあげつらうのではなく、「君はこう考えているようだが私はこう考える、この考えの方がよりよい考えに思えるが、どうだろうか」というような「互いの高め合い」を目指す話し方をしよう。

おわりに…

谷村先生はこの後の形而上学に関する議論も「このノートで言いたかったこと」に含めていらしたのですが、私自身の形而上学への理解が追いついていないことからご紹介はここまでとします。私の拙いコメントで、物理学分野の皆さんが「哲学の人たちってこういう風にものを見るのかな」と少しでも関心を持ってくださったら嬉しいです。

私が谷村先生の一連の文章を読んで、真っ先に感じたことは

物理学者はここまで哲学のこれまでの経緯や現在リアルタイムで議論されていることを把握した上でコメントしているけど、哲学者は物理学についてどれだけ理解しようと努めているだろうか?

ということでした。決して「物理学者と対等に議論できるくらい物理学に精通した者でなければ科学を語ってはいけない」などという強い主張をしたいわけではありません。でも同じ土俵に立てるくらい、物理学を理解しようという努力をする哲学者がいてほしいし、もし可能なのであれば私自身がそういう哲学者になりたいと思います。

 

 

*1:クリプキの『名指しと必然性』に出てきます

*2:こちらはパトナム『精神と世界に関する方法』