Sea of Tranquility

しずかのうみ

顔にあざのある女性たち

最近社会学関連の本を読む機会が多くなっていました。これもその一冊です。

顔にあざのある女性たち―「問題経験の語り」の社会学

顔にあざのある女性たち―「問題経験の語り」の社会学

 

社会学の一分野に「ライフストーリー研究」というのがありまして(この夏の終わりにちょこっとだけ勉強しました)、事象の「当事者」にインタビューを敢行し、その人の体験を通じて社会学的な考察を行うようなものかな、と今のところの私は思っています。私がお世話になったライフストーリー研究者さんは長崎の被爆者にお話を聞くということをされていました。ただ他人の人生を振り返るだけではなく、そこでの対話から自分自身の人生に投影されるものがあったりするとなかなかハードな質的研究になるようです。社会学やっぱ難しい。

本の内容というかテーマは、事故や病気で顔に傷跡やあざがある"女性"にフォーカスして、何人もの「当事者」にインタビューを試み、そこから浮かび上がってきたものを掘り下げ検討し評価したものとなっています。

この本のタイトルを見た時に私が持った第一印象は、女性は美醜を気にするからそういう観点からジェンダー論を語るのかな、というものでした。

この本はもともと著者がお茶の水女子大で書いた博士論文に加筆したものです。なので研究の意義や手法などから始まり、次に実際に聞き取ったインタビューのトランスクリプトを列記して…という流れになっています。この段階ですでに著者は「顔のあざは障害である」という観点を獲得して、その説明をきっちり済ませていました。私は当初の予想を裏切られ、「そうか、あざって大変なんだ」と認識を改めたところでした。

しかし後半になり、研究手法を振り返ったところで、著者としてはやはり当初は美醜の話をしたかったんだとカミングアウトされてしまいちょっと当惑しました。そして、美醜にこだわると「当事者」の苦しみが見えてこないこと、「当事者」の中にもジェンダー論などを勉強した人がいて、著者の認識の浅さに対し指摘を入れてきたことなどから、それまでの構想では研究が進まないことに気づき、軌道修正を行うのです。

博論のための研究中に方向性を修正するのは容易なことではないだろうなと思うとともに、その葛藤も正直に著書に書き残した著者の真摯な姿勢に共感しました。ってあれっ。本の内容というより研究とは何か、みたいな話になってますね。

顔に傷やあざがある人が身近にいたとして、私はきっと気にしてない風を装おうとするがあまりわざとらしい接し方になってしまいそうな気がします。

当事者の皆さんとしては、やっぱり見られたくないし、頑張って隠していることを察してそっとしてほしいと思っていらっしゃるようです。

あざがあるというだけで他に機能的な障害もなく普通の日常生活が送れるんだからいいじゃない、などという言葉は慰めにはなりません。健康体なんでしょ、と言われてなんの配慮も受けられないのに、就職や結婚では明らかに不利になり、家族ともぎくしゃくして孤独を感じている人が多いということは、こういう機会がなければ知り得ないことでした。

社会学社会心理学では客観的データに基づいて分析する手法もありますが、こうして個人の話をとことん聞くという質的研究によってわかることって少なくないし、すごく重いんだなー…勉強になったなんていうありきたりな感想で終わらせられないものを感じています。