Sea of Tranquility

しずかのうみ

笑いと忘却の書

 チェコで生まれ、現在はフランスで活動している作家、ミラン・クンデラの小説です。フランスに滞在しレンヌ大学で教えていた時に書かれたので初版はフランス語でした。原題は Le Livre du rire et de l'oubli チェコ語版は81年出版で、タイトルは Kniha smíchu a zapomnění

世界史の授業って古代中世から丁寧に順を追って進むから現代までたどり着けないことが往々にしてありますが、私が受けた教育も例外ではなく、「プラハの春」はそういうことがあったのは知っていても、具体的に何が起きたのかを人に説明するのは難しいという程度の認識しかありません。歴史の勉強は大事だと痛感する今日この頃です。

ミラン・クンデラは映画化もされた『存在の耐えられない軽さ』が有名ですが、あらすじを読んだり映画の予告編を見たりした印象で、内容の耐えられない重さにちょっと警戒してしまい未読でした。

今回この本を読んだのは、東京大学大学院でクンデラの研究をされている大学院生さんの研究発表を聞いて、クンデラの作風に興味を持ったからです。すでに読んだ人にはわかると思いますが、クンデラは自分の小説の中で自分が作った主人公にツッコミを入れたり、ストーリーの背景を説明し始めたりして、自己主張をする珍しい作家なのです。

この作品でも、創作の合間にクンデラ自身の体験談がしばしば挿入されます。チェコの人々が、せっかく獲得しようとした民主主義と自由を失って、時代を逆行させられた時のことが体験者の言葉で臨場感を持って語られるのを読み、昨今のきな臭い国際情勢を鑑みるに、平和とか自由って努力して維持しないと保つことができないものだなぁと感慨に耽ります。

 

笑いと忘却の書

笑いと忘却の書

 

この小説は決まった主人公がいるわけではなく、短編集であるかのような体裁となっていますが、通奏低音のように共通の登場人物が複数回登場したり、違う章で同じ書き出しになっていたりと、一編の長編として成立しています。

題名として使われている「笑い」と「忘却」ですが、どちらも乾いて空虚で少し痛烈な、ひねりの効いたものとして作中では扱われています。

文学専攻の友人たちの中には、よくある文学作品中の不倫が苦手〜、という人も多いのですが、この本では深刻な不倫よりもあっけらかんとした3Pや乱交が描かれていて、うーん、どっちの方が刺激が強いのかなぁと考えてしまいました。でもクンデラとしては、セックスはコミュニケーションの手段に過ぎないのかな。もちろん、夫に対する裏切りかも、と悶々と悩む主婦とか、好きな女性と初めて同衾してどきどきしちゃう青年も出てくるし、決してスポーツ気分でやっているようなものではなさそうですが。まあそれにしても、出てくる人たちみんななんのためらいもなくどんどん服を脱いでいく感じです。実は読んだことないんだけど、村上春樹もこんな感じですか?

一編ずつ、印象に残った表現を引用しつつ短くコメントしておきます。(本当は別の文章を残したかったところもあるんだけど、一度本を閉じたら見事に忘れました。さすが忘却の書)

 

亡命した者(十二万人)、職場を追われ沈黙を強いられた者(五十万人)は、さながら霧のなかを遠ざかってゆく行列のように、人知れず消えて忘れられてしまう。(第一部 失われた手紙)

秘密警察からマークされている元科学者が、元カノに書いて送った過去の手紙を取り戻しに行こうとする話。この中で一番淡々と進むストーリー。

 

彼は頭のない男の肉体になった。カレルが消えてしまい、奇跡が起こった。マルケータが自由で陽気になったのだ!(第二部 お母さん)

とある夫婦のところに夫(カレル)の母が遊びにくる話。お母さんのキャラクターがよい。引用したのはマルケータ(妻)の友達と3人でセックスしてる時の描写。

 

それに一匹の猫が脚を六本持てるっていうのもまた、わかんないのよね。(第三部 天使たち)

アメリカ人の少女たちが、地中海の街にサマースクールに来て、ウージェヌ・イヨネスコの戯曲について発表するために勉強をする…という健全なお話なんだけど、実に半分くらいがクンデラの自分語り。かと思ったら、サマースクールにいた別の少女のことを妹とか言い始めるし、最後の最後でちょっとびっくりする。その「妹」が実在の、本物のクンデラの妹かどうかはちゃんと調べないとわからないけど。

 

「わかってくれないの?きみの国でもぼくの国でも、おしまいになってしまうのがいやなんだ!もしみんなが黙っていたら、みんな奴隷みたいに死んじまうじゃないか」

 

(ああ、まったく、不快な記憶はやさしさの記憶よりも大きいんだわ!) (第四部 失われた手紙)

 第一部のことをもはやすっかり忘れて読み終えたけど、この第四部も、今は手元にない自分が書いたものを取り返そうとする話。亡くなった夫との生活や旅行の記録を書いた手帳を、夫の実家に隠したままの妻が、なんとかして義母にコンタクトをとってそれを取り戻そうとするんだけど、義母にはぐらかされたり意地悪されたりしてなかなかうまくいかない。妻は現在フランスに住んでいて、自分一人でプラハに手帳を取りに行くのは気が進まない。夏のバカンスにプラハに行こうと言う友人に頼もうとするけどそれも思うようにならず…と、展開的には最も手に汗握る?感じだけど最後はあっけなく終わってしまう。早く取り戻さないと夫との日々をどんどん忘れてしまう、と焦る妻の気持ちが可愛いけどままならなくてちょっとかわいそう。

 

「リートスト」とは、他の言語には翻訳できないチェコ語である。長く強調して発音される最初の音節は、捨て犬のうめき声を思わせる。この語の意味について言えば、それなしには人間の魂が理解できないほどだと私には思われるのに、他の言語にはいくら捜してもそれに相当する語が見つからない。(第五部 リートスト)

 田舎の主婦と不倫する大学生の話。ここではクンデラは自分の父の回想を挿入している。クンデラのお父さんは音楽の先生だったみたい。ベートーヴェンの変奏曲について、病状が進んでうまく説明できない父親の言葉をクンデラが「こう言いたかったんだろう」と解説してくれる。訳者の解説でもこの章の内容を引いて、この小説自体が変奏曲的な構成だと書かれている。

チェコ語ではリートストをどう説明したんだろうな。

 

「忘却を忘れることです」(第六部 天使たち)

 第四部の主人公、タミナが再登場。第一部に出てくるとある自動車も再登場して、あれは何かの象徴だったのかもと思い当たる。辻褄の合わなさが、不条理系ホラー映画のようで、印象的な背景描写もあいまって映像化されて欲しさが募るけど子供にあんな演技はさせられないから無理か。

 

石工は金槌の主人だが、しかし金槌のほうが石工より優位に立つ。というのも、道具は自分がどう扱われねばならないかを正確に知っているのに、道具を扱う者はそのおよそのところを知りうるにすぎないからだ。

 

そう、ひとが境界を越えてしまったとき、笑いが運命のように鳴り響くのだ。しかし、もしひとがもっと遠くまで、笑いを「越える」まで遠くに行ったら?(第七部 境界)

 そういえば今まで言及していなかったけど、訳者(仏文学者の西永良成先生)のセンスもすごくて、擬音語の選び方とか、同音異義語でダジャレを表現するとか、読んでいてクスッと笑ってしまうところがいくつもあった。あまりにもあからさますぎて、本当にクンデラは親父ギャグ効果を狙ったのか?と疑問に思うくらい。この第七部でも「童貞の大変長い道程」なんてのは確実に狙ってるなと思う。研究発表でも、クンデラは翻訳にも目を通してきっちり意見を言ってくると聞いたので、存命中は凝った翻訳が楽しめそうです。

フランス語がわかったら原文で読んでみたい作家ですね、ミラン・クンデラは。

図書館でハードカバーを借りたんですが、装丁が山本容子さんの版画でおしゃれでした。

 大学の教育の賜物?で、小説も背景や作者の思想なんかを読み取ろうとするとなかなか読み進みませんが、だらっと読んでいた頃よりはたくさん感想を持てるようになったかな〜。娯楽である小説でも「読み方」がありますね。クンデラは面白かった。でもまあ、当分次はいいかな。