Sea of Tranquility

しずかのうみ

コペンハーゲン

SIS company inc. Web / produce / シス・カンパニー公演 コペンハーゲン

久しぶりにストレートプレイを観てきました。


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贔屓の劇団や俳優がいるわけでもなく、普段情報収集なんて全くしないのに、この作品の情報が舞い込んできたのは本当に幸運な偶然でした。もとはといえば、演出の小川絵梨子さんが新国立劇場の次期芸術監督に選ばれたというニュースがツイッターで流れてきたのがきっかけです。音楽部門は私も昔から名前を存じ上げている方だったし特に強い印象は持たなかったのですが、演劇部門に選ばれた小川さんがTL上でいろいろな方たちから絶賛されていて興味を持ちました。それでお名前を検索してみたところ、このお芝居が今まさに上演中なことがわかったのです。でもそれだけで劇場に足を運ぼうとは思いません。

 この作品の題材は、第二次大戦中、タイトルにもあるデンマークの首都コペンハーゲンで、二人の著名な物理学者が、お互い大変難しい立場にありながら会って交わした会話の内容から取られています。

その二人とは、ニールス・ボーアヴェルナー・ハイゼンベルク

理論物理学者で、量子力学の確立と発展に貢献したお二人です。もちろん(?)二人ともノーベル物理学賞を受賞しています。

わたくしも一応、二人が展開する物理学の理論について、仕組みはわからないまでもどの辺の分野なのかくらいは把握して観劇していたつもりではありますが、この場で読者に説明できるほどわかってはいませんので、彼らが具体的にどんな業績を積んできたかなどは各自お調べください。やりっぱなしですみません。

この舞台で物理学的な焦点になっているのはずばり、「大量殺戮兵器としての原子爆弾は第二次大戦中に実用レベルまで開発可能かどうか」です。

ボーアはナチス占領下のデンマークで監視下に置かれ、ハイゼンベルクはドイツ人としてドイツのために研究を続けているという立場で、二人がこの時期にプライベートに会って話をするということは当然ナチスにもマークされていました。

その危険を冒してなぜハイゼンベルクデンマークへ来たのか。ボーアに何を話したのか。

もちろん記録には残されていませんし、彼らも公にはしていません。しかしこの1941年という時期と、彼らの研究内容や業績から、核開発にかなり肉薄した内容、つまり、ナチスドイツが原爆を兵器として使えるレベルにできるかどうかに関することであっただろうと推察されています。この内容に、彼らの著書や残された記録などから深く切り込んだのがこの舞台劇です。

登場人物はボーアとその妻マルグレーテ、そしてハイゼンベルクの3人のみ。

シンプルなセット、シンプルな音響で、役者さんの存在感と演技だけで進行する、ある意味とてもエキサイティングな内容でした。

ボーアとハイゼンベルクの会話劇だったら収拾がつかなくなっていたと思われるのですが(だって想像してみてくださいよ、ガチ理系の頂点ですよ)、マルグレーテがナイスツッコミを随所に入れてくれるのでなんとか話が進んでいきます。ちょっとツッコミ鋭すぎるんじゃないの、と思ったくらいです。マルグレーテは量子力学における「観察者」の立場でこの劇に介入していると言われています。

導入、彼らは死後の世界で、自らがもはや生者ではないという自覚の元に思い出話をするところから物語を開始します。そして、「もう誰も自分たちのことを見張っていないから」という理由で、あの日の会話をやり直してみようということになるのです。登場人物たちは死の自覚を持った死者たちなので、劇中の時間軸は過去のことを思い出すたびにその時代へ飛びます。観劇後のレビューを読むと、この構造をわかりにくいと思った人もいたようですが、私は特に違和感なく観続けました。子供のおままごとみたいな感じです。「じゃあここから台所ね」と言って引いた線が、次の場面では別の部屋になっていたりする、それを時間軸でやるわけです。「あーなんか今20年前のこと思い出したからそこやってみる」みたいな。

出会った頃からの歴史を行きつ戻りつしながら、彼らは1941年のあの日を再現していきます。実際はどうだったのかはわかりませんが、この劇中では、ボーアはハイゼンベルクの発言に怒ってしまい、彼らの会談は10分ほどで終わったということになっています。(作者によると、会話の具体的な内容以外はかなり事実に基づいて作られているそうなので、その時間は本当にそうだったんだと思われます)

じゃあ、ボーアが短気を起こさずにハイゼンベルクの話をちゃんと聞いていたらどうなったんだろう、それから、これは史実でもそうなっているらしいのですが、ハイゼンベルクが拡散方程式を億劫がらずに解いていたら歴史は変わっていたんじゃないのか、ドイツが原爆を作ってロンドンに、パリに、なんならコペンハーゲンに落としていたんじゃないのか、などの問題提起をされるのですが、本当に原子爆弾が作られてしまって広島と長崎に落とされた時に、原子物理学者たちがどれだけショックを受けたかなどの描写も挿入され、心を打たれました。

最後は、「自分の事って観測できないよね」「私たちが見ている世界には私以外の登場人物がいて、私は自分自身のことだけは見ることができない」みたいなある意味哲学的な内容に変貌し、結局会話の内容は明らかにはされず、観客の想像に委ねられて終わります。

特に前半、原子物理学者たちの嘆きに代表される、「人の役に立ちたいと思ってやっている研究が人の命を奪っている」という事実に圧倒されながらも、自分たちの存在理由としての研究を止めることができない、ボーアとハイゼンベルクの葛藤は胸に迫りました。

 

演劇そのものの感想を少し。

浅野和之さんは、神経質そうだけどちょっとブラックで、ライバルや教え子をからかって遊ぶのが大好きなボーア役を好演していましたね。ボーアの口癖は「批判するつもりではないんだがね」。で、こう言いながらきっちり批判します(笑)

段田安則さんは、発声が素晴らしくて聴き惚れました。浅野さんほど表情豊かではなかったものの、国家と研究の板挟みになって自由に動けないハイゼンベルクを、きっちり着こなした窮屈なスーツで体現されていました。ハイゼンベルクの口癖は「成り立っているものは成り立っているんです!」

宮沢りえさん、最初ずっと「ハイゼンベルグ」と発音されてまして、ああ、デンマーク語ではgはちゃんと濁るからなあ、役作りすごいなあ、とか変なことに感心してましたけど、ずっと観ていると「グ」と「ク」が混在してたので単なる滑舌の問題だったようです。あまりにハマったので帰りにスクリプトも買ってきたんですが

マイケル・フレイン(1) コペンハーゲン (ハヤカワ演劇文庫27)

マイケル・フレイン(1) コペンハーゲン (ハヤカワ演劇文庫27)

 

これを読むと、マルグレーテの性格はいかようにも設定できそうだったのですが、強気で勝気な感じにされたようですね。毅然とした姿勢で、夫とハイゼンベルクのぐだぐだな会話に切り込む絶妙な観察者でした。

私は縁もゆかりもないのにお墓まいりに行くくらい科学者好き?なので、出てくる人名の大半は知っていたし、ボーアとハイゼンベルクがほとんどずっと彼らの悪口を言っていたのが楽しかったです。ハイゼンベルク、来日した時にディラックと一緒にお寺の屋根に登ってふざけてたんかい…とか。

最近ちょっと哲学とか勉強してるんですけど、哲学の歴史は科学の歴史でもあって、まだその辺のクロスオーバー加減は文章化できるほど理解できてはいませんが、例えば「存在する」なんていう現象は物理学的にも哲学的にも考察できるんだよなあ、なんて考えながら観ていました。

そういえばハイゼンベルクのお墓行ったなぁ。ミュンヘンで。

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奥さんのエリザベートと一緒に埋葬されています。

コペンハーゲンにも何度か行ったんだから、少し調べてボーアのお墓にも行けばよかったなぁ。