アナと雪の女王2
www.disney.co.jp前作の感想エントリを読むとなんだか熱く語っていて恥ずかしい…
さてこの続編は
氷の城に立てこもって強大な自分の能力を持て余すよりは、それをコントロールできるようになって笑顔で人と交流している方が健全なんじゃないか
アナと雪の女王 - Sea of Tranquility
という自分のツッコミにディズニーがリプライしてくれたかのような内容でとても満足、いや、そこそこ満足な結末。大満足とはならなかったのは私個人のただの感傷で、「姉妹いつまでも仲良く一緒に暮らしました」で終わってほしかったということなのだろうか。でも前作で引きこもりから脱却したアナとエルサがいつまでも仲良く一緒に暮らすことはできないよね?というツッコミにも自然で、かつお見事なソリューションが提示されていたと思う。
そもそも私がこれを観ようと強く思ったのは
アナとエルサは言語コミュニケーションが欠如するとすれ違いが発生するが、逆にアナとクリストフは言語コミュニケーションが過剰になるとすれ違いが発生する。この比較が面白い。
— Eva (@evahpfbgkotk) November 25, 2019
この姉妹は”似てない者同士”だから丁寧な対話が必須であり、このカップルはソウルメイトだから言葉はむしろ余計な物。
このツイートがきっかけだった。私自身はアナとクリストフがソウルメイトとまでは感じなかったし、この二人が言語コミュニケーションですれ違うのはクリストフが緊張すると余計なことまでつけ加えてしまうことと、アナがなぜかその「余計なこと」をわざわざ拾って誤解するからという単純なディスコミュニケーションに起因すると思っているけど、前者は完全同意。あと、探すの面倒なので貼らないけど酷評していた人もいて、「そんなにひどいのかなぁ」という興味もあった。結論から言うとそこまでひどくないと思ったけど。
ラディカル環境保護派と疑似科学信奉者が喜びそうな展開には賛否両論といったところかもしれない。でもトナカイがしゃべり雪だるまが踊りエルサが物を凍らせる世界で疑似科学もへったくれもないよね!
かといってこの世界の物理法則は決して地球のそれを完全に破っているわけでもなく、空気や水の動きなどエフェクトとレンダリングの緻密さは特筆ものである。(私はピクサー展に行ったのでディズニーがこういうのにどれだけ力を入れているか知っているのだ!)流体力学の研究者でアニメが嫌いじゃない人は、観たら絶対楽しめるのでソフト化を待たずに劇場の大画面で鑑賞することを強くお勧めする。エンドタイトルを最後まで見ていたら、Senior Research Scientist が二人もクレジットされていた。よくできた嘘の中には幾分かの真実が含まれているってことだ。日本でもこのところ仮面ライダーには検証のできるプロの科学者がアドバイザーとしてクレジットされているけど、もっともっと入れていけばいいのに。
というわけで
前作と比較しても遜色ない、いやむしろよくできた続編なので食わず嫌いをなさらずよかったらご覧になってみてください。
オラフの一人芝居とかオラフのシリアスな場面とかほんとうにオラフは今作では前作にも増してウザくてかわいいです。あとクリストフのソロナンバーはシリアスな歌詞でかっこいいアレンジなのに笑ってしまう。監督が
80年代のロックバラード調になっているからお楽しみに!
ってコメントしてましたけど、はい(笑)
今、知人の一人がすごく困っているので何を見聞きしてもそっちに結びつけてしまいがちなのですが
未来が見えない時は、今できる、正しいことをする
というセリフがとっても心に響きました。正しいことをするのは決して容易なことではなく時として身を危険に晒すリスクもあるのですが、今できることを全力でやるというのは人生のどの局面においても真理であると思います。しみじみ。
上映前は私が座っていた席の背もたれに蹴りを入れるなど落ち着きのなかった後ろのお子様も本編が始まったら身動ぎもせず見入っていたようなので、お子様にもアピールする内容だったと思われます。私は神田沙也加ちゃん大好きなので吹き替えで観ましたけど前回割と優等生っぽく演じていた松たか子さんが今回はけっこう弾けていてよかった。沙也加ちゃんはますますお上手になっていた。アナのソロナンバー難しかったのに。Into The Unknown もまあまあ難しいかもだけど The Next Right Thing は名曲だぞ!そしてこれを歌った後のアナの行動は本当に勇敢で素晴らしい。
イディナ・メンゼルはテンポ感がゆるゆるで時々聴くのがつらいんだけど、やっぱり字幕も観たいのでまた映画館に行っちゃうと思います。
太宰治の辞書
「円紫さんと私」シリーズ最終巻です。
主人公ちゃんはすっかり大人になって、中学生のお子さんもいます。ご主人誰なんでしょうね。ベルリオーズ?そこは何も触れてなかったんですよね。
出版社勤務は続けていて、働きながらの子育て、ご主人の協力があってもなかなか大変というような描写もありました。
花火
主人公ちゃん、所用で赴いた新潮社でいきなり「三島由紀夫が江戸川乱歩や芥川比呂志と対談した時の書き起こしにミスがある」とか言い出します。もとはといえば卒論で芥川を取り上げた彼女が『舞踏会』を読んだ時のことを想起したわけですが、それにしっかりつきあう新潮社の人もさすがですね。それでまあもっぱらピエール・ロチの話に始まり、『舞踏会』の内容に踏み込み、表題の太宰を少しかすってこの章では三島に着地しました。私はこの、三島、乱歩、芥川比呂志らの座談会が読みたい!ちょっと探してみようかな。
たぶんこれに収録されているんですよね。うふふ。
女生徒
大学時代の仲良し、国語の先生になった正ちゃんを訪ねた主人公ちゃんは、正ちゃんから太宰治の『女生徒』を勧められます。
これはねぇ!国文専攻の友達がツイッターのbioかどっかに書いてたんだよね、最後のくだりを。それがかっこよくて。引用は後でね。
『女生徒』は太宰治が有明淑という女性の日記を、ほぼ原文に忠実に少し翻案した作品なのですね。主人公ちゃんは、有明淑オリジナルと太宰の文章を見比べて、一つの謎に行き当たります。そして例によって文芸春秋社の社員さんや遠く離れた徳田秋聲記念館の学芸員さんまで巻き込んで、「学術的探索って、すごい!」と思うところまで。
有明淑さんは瑞々しい感性が素晴らしいのですが、太宰の翻案がまた味があっていいですねえ。
太宰治の辞書
それでやっと表題作。そしてやっと円紫さんが出てきます。辞書は円紫さんから出されたお題でした。最後は前橋に行って萩原朔太郎にも少し触れながら、太宰治の辞書に関する一考察を展開して終了です。まあこの本自体は今までの「女子大生」という身分から「出版社の社員」に格上げになった主人公ちゃんが、ある意味職権を駆使して、円紫さんからのヒントももらわずに謎に挑むという点では成長を感じましたが、ほとんど作者の趣味だなぁ( しかも高尚な)という印象が残りました。円紫さんとの掛け合い?が楽しみだった読者には少し肩透かしだったかもしれません。
おやすみなさい。私は、王子さまのいないシンデレラ姫。あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?もう、ふたたびお目にかかりません。
白い朝
こちらは番外編。言及はされていませんが、円紫さんの中学生時代が垣間見られるちょっとくすぐったい初恋のお話でした。
久しぶりにシリーズ物の一気読みをして、哲学ではない文章を読んで、楽しかったあ。そして、せっかく文学部なのでもう少し小説をちゃんと読もうって思いました。まだ来年も大学生ができそうですしね。
朝霧
手持ちの本はここまで。(この次も図書館には予約済みだけど)
短編集に戻ってきました。
山眠る
卒論を無事に書き上げた主人公ちゃん。私の卒論はいつ終わるのか…。これは俳句のお話。俳句。俳句ね!「六月の花嫁」にも俳句の話題が出てきていて、それに一言言及したかったんですけどすっかり忘れておりまして。私が俳句について語れることといえば、「六月の花嫁」でも話題になった「季語違い」ですかね。私が真っ先に思い出したのは横溝の『獄門島』の殺人トリックなんですけどね。根が剣呑なものですから申し訳ありません。詩歌は解釈が入るので正解があるようなないような難しい分野ですけれど、たくさん読んでいると何かがわかってくるような気がしてきましたし、正解は自分の中にあればいいのかもしれないとも思う今日この頃です。正解といえば、主人公ちゃんは今回職場の先輩から投げかけられた謎を円紫さんに教えてもらうというチートっぷりでした。あ、いつもか。このお話で印象に残ったのは田崎先生の
—いいかい、君、好きになるなら、一流の人物を好きになりなさい。—それから、これは、いかにも爺さんらしい台詞かもしれんが、本当にいいものはね、やはり太陽の方を向いているんだと思うよ。
というお言葉でした。
走り来るもの
主人公ちゃんは大人になったので就職先の出版社で指導を受けている先輩天城さんと交わす会話も色っぽい感じです。でも相変わらず自分に降りかかった謎の解読は円紫さんにおまかせ。まあそうでないと話が成立しないわけではありますが。
結末のない、というか結末は読者の解釈におまかせ、なリドル・ストーリーがテーマです。ストックトンは結局解答編である『三日月刀の促進士』を書いたと言われていますが、このあたりはwebで検索しただけではよくわかりません。英語版ウィキにも言及されていませんし、北村さんもそのことには触れていません。
リドル・ストーリーで検索をかけるととあるウェブサイトに行き当たります。『三日月刀の促進士』のあらすじも読めますが…
kakugen.aikotoba.jpストックトンの2編と、その他代表的リドル・ストーリーとして紹介されている中に『箱の中にあったのは?』というものがありまして、作者名がリチャード・マスティンと書かれている。いやちょっと待って、これはリチャード・マシスンでしょ!こういうの書くのは!このサイトは日本語版ウィキでも外部リンクとして掲載されているんですが、なんだか適当なんだなあと思って他も調べていたら
trivial.hatenadiary.jpここを見つけて「やっぱりそうだよね!」と膝を打ちました。くだんのサイトではマシスンの作品を勝手に改変していたらしく、そこも私には噴飯ものでしたが、こちらのブログでは
『夢探偵』自体が他人の書いた物語の受け売りであり、オリジナルの要素はほとんどない。しかし、テーマを設定し、そのテーマに沿って物語を選択し、要約し、配列したのは、石川喬司の仕事だ。その業績を軽んじてはならない。
というように言われていて、本当に心からそう思います。
朝霧
先輩の結婚式で、かつてベルリオーズのレクイエムを隣で聴いた気になる彼と再会、という甘酸っぱいお話からの忠臣蔵。
さすがに今回は円紫さんから「自分で調べて」と言われ泉岳寺へ赴く主人公ちゃんでした。
ベルクソンのことがちらっと出てきます。
この哲学者の名前は、戦前の本を読むとよく出て来る。何だか分からないけれど...
えっそうなの〜?ベルクソンは令和になっても私たち哲学専攻者が逃れることのできないビッグネームなんだけど、やっぱり文学研究者には遠い存在なのかなあ?主人公のおじいちゃまは
と日記に書いていて、ほえ〜、ベルクソンの認識論がわかるなんてすごいわ、それにしてもさすがおじいちゃま、孫娘と句読点の打ち方がよく似ている…とか思ってしまいました。あと、おじいちゃまはもしかしたら塾員さんなのかも。泉岳寺に馴染みがあって近くの大学に通っていたみたいなので。
ベルクソンの認識論の一部ですが、
意識状態を「既知の共通な用語」で表現することはできない。共通概念を使って名指すことは、人格により、また瞬間ごとに異なる「色合い」を備えた多様なものを同じ名前で括ることに他ならないからである。*1
ということのようですよ。うーん。難しい論文も少し読めるようになってきたかな…関係ないけどやっぱりベルクソン研究者はフランス語でアブストを書くんですねえ。
最後は脱線しましたが、一応ミステリなのであらすじは書かず自分の感じたことだけ書くというスタイルをできる限り貫きました。時々あらすじが書きたくなって困りましたが…。
このシリーズ(あと一冊残ってはいますが)を読むことで日本文学のよさを見直すことができたのはよかったですね。国文の友達ともっと仲良くしようと思いました。あとはせっかく大学で身につけた仏文の素養をさらに育てていければ、ベルクソンも怖くないかも…(やっぱり怖いかも…)
*1:『直観と言語 —ベルクソンの認識論と方法』吉野斉志 (京都大学宗教学紀要 2017-14 )https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/228356/1/2017journal_078.pdf
六の宮の姫君
早や4巻め。中断しながらでも1日1冊ペースで読めるのでこの次の巻までは読んでしまいました。ブログに書くとなると感想を整理しないといけないので2日に1回くらいの更新になりますが…。
今回も長編です。しかも今回は、ミステリはミステリでも書誌ミステリ?
主人公ちゃんは大学4年生。卒論のテーマは芥川龍之介だそうです。
結局主人公が『六の宮の姫君』をどれだけ卒論の中で書いたのかはわからずじまいでした。円紫さんに対しても「卒論の役に立つ」くらいのことしかコメントしていなかったしね。
後半は芥川よりもむしろ菊池寛を読み解くフェーズに入るし。
でも大正・昭和初期の文豪の皆様の交友関係に踏み込んだ描写はなかなかに読み応えがありましたよ!文学部はこういうところが面白いんですよねえ。
私は『六の宮の姫君』は芥川では読んでいなくて山岸凉子の漫画に何かの形で出てきたのを読んだ気がする。あとは今昔物語?関係ないけど、関係なくもないけど、主人公が学友正ちゃんに卒論の構想を説明するくだりで出てきた『往生絵巻』の、五位の口に蓮華が咲くってやつ
この表紙絵を真っ先に思い出しました。この人は五位ではないけど。これなんのモティーフかと思ってたんですよね。『往生絵巻』だったのか。関係ないけど『ゆうれい談』に出てくる幽霊って『リング』映画版に出てくる手ぬぐいかぶった人の原型のようにも見えますね。
あっ、本作ではやっと!フローベールの二重母音が日本語化されました。やったね!
それと、本当に私は日本文学ちゃんと読んでいなくて芥川は『蜘蛛の糸』と『羅生門』くらいしか知らないんですけど、芥川は『文芸的な、余りに文芸的な』で志賀直哉の作品を「話」らしい話のない「最も純粋な」小説と評していたそうなんですね。(これに谷崎潤一郎が反論するっていう流れらしいけどここでは割愛) このくだりを読んだ私が思い出したのは、フランス文学のジッド。この人も純粋小説っていうのを書いてみようということで、『贋金づくり』という当時としてはちょっと変わった作品を作り上げました。ジッドの純粋小説は「小説的な技巧に走らず人物や出来事をあるがままに描写する」「登場人物の心情を作り上げるのではなく彼らが行動するにまかせる」みたいなことだったようなんですけど、芥川のいう「話らしい話がない」というものに通じるのではないかという気がします。というわけで『文芸的な、余りに文芸的な』も読んでみることにしました。
それにしても『贋金づくり』が出版されたのが1925年、芥川の『文芸的な、余りに文芸的な』が雑誌に連載されたのが1927年というのは不思議な符合ではないですか?日本とフランスで時期を同じくして二人の小説家が「純粋な小説とは」ということに着目していたことになるんですから。
『贋金づくり』の最初の邦訳がいつだったのかはちゃんと調べていませんが、ウィキペディアにあるのは1930年代のものでした。芥川がジッドを読んだのかどうかもわかりません。読んだ形跡があったらすごく面白いですよね。この後横光利一が日本で本格的に純粋小説を語ることになるんですが、それだって1935年のことです。
…という感じで私自身も自分の今までの知識からこんな妄想を広げたりしながら読みました。北村薫の『六の宮の姫君』もこういうお話でした。
文学部楽しいね…。
秋の花
「強い」長編。
「人が死なないミステリ」で初めて人の命が失われます。
えーと
仏文の課題で『感情教育』を読むみたいなのがあったんですけど、まだ読んでいません。今年の課題はなんだったかなあとか思い出しながら読みました。『感情教育』についてはうちの小倉先生が詳しいので下手なレポートは書けません。『ボヴァリー夫人』は、すでに課題をこなしたお友達から何かコメントを聞いたのですが、自分にはあまり関係ない話だな、と思って聞き流したのを後悔しています。この本では「フロベール」表記なのですが、二重母音なのでフローベールって書かれた方が目に馴染むなぁ…。
あ、そうか。この本に出てくる落語の演目や作家や書名をリストにしたら、面白いかもしれない。
『野菊の墓』ツアーはやってみたい!でもせっかく千葉まで行くなら館山までがんばって『南総里見八犬伝』ツアーにしたいかも…。1日で回れるんだろうか。犬が出てくるし好きなんですよ八犬伝。子供向けに1冊にまとめたものしか読んだことがないので改めてちゃんと読んでみたいんですけど、ちゃんとした全訳はあんまりないみたいですね。
本編にはあまり触れたくないのですが、故意や殺意より過失の方が、当事者には重い…いえ、比較するようなものではないとは思いますが、殺意が芽生えてそれを行動に移すまでにも(当事者が罪悪感を覚えないサイコパスだったとしても)いろいろなことがあるとは思うんですが、過失はほんとうに、つらいと思います。過失を裁いても誰も幸せになりません。でも一番裁かれたいのは当事者なのかもしれません。