Sea of Tranquility

しずかのうみ

六の宮の姫君

 早や4巻め。中断しながらでも1日1冊ペースで読めるのでこの次の巻までは読んでしまいました。ブログに書くとなると感想を整理しないといけないので2日に1回くらいの更新になりますが…。

六の宮の姫君 (創元推理文庫)

六の宮の姫君 (創元推理文庫)

 

 今回も長編です。しかも今回は、ミステリはミステリでも書誌ミステリ?

主人公ちゃんは大学4年生。卒論のテーマは芥川龍之介だそうです。

結局主人公が『六の宮の姫君』をどれだけ卒論の中で書いたのかはわからずじまいでした。円紫さんに対しても「卒論の役に立つ」くらいのことしかコメントしていなかったしね。

後半は芥川よりもむしろ菊池寛を読み解くフェーズに入るし。

でも大正・昭和初期の文豪の皆様の交友関係に踏み込んだ描写はなかなかに読み応えがありましたよ!文学部はこういうところが面白いんですよねえ。

私は『六の宮の姫君』は芥川では読んでいなくて山岸凉子の漫画に何かの形で出てきたのを読んだ気がする。あとは今昔物語?関係ないけど、関係なくもないけど、主人公が学友正ちゃんに卒論の構想を説明するくだりで出てきた『往生絵巻』の、五位の口に蓮華が咲くってやつ 

ゆうれい談 (MF文庫)

ゆうれい談 (MF文庫)

 

 この表紙絵を真っ先に思い出しました。この人は五位ではないけど。これなんのモティーフかと思ってたんですよね。『往生絵巻』だったのか。関係ないけど『ゆうれい談』に出てくる幽霊って『リング』映画版に出てくる手ぬぐいかぶった人の原型のようにも見えますね。

あっ、本作ではやっと!フローベールの二重母音が日本語化されました。やったね!

それと、本当に私は日本文学ちゃんと読んでいなくて芥川は『蜘蛛の糸』と『羅生門』くらいしか知らないんですけど、芥川は『文芸的な、余りに文芸的な』で志賀直哉の作品を「話」らしい話のない「最も純粋な」小説と評していたそうなんですね。(これに谷崎潤一郎が反論するっていう流れらしいけどここでは割愛) このくだりを読んだ私が思い出したのは、フランス文学のジッド。この人も純粋小説っていうのを書いてみようということで、『贋金づくり』という当時としてはちょっと変わった作品を作り上げました。ジッドの純粋小説は「小説的な技巧に走らず人物や出来事をあるがままに描写する」「登場人物の心情を作り上げるのではなく彼らが行動するにまかせる」みたいなことだったようなんですけど、芥川のいう「話らしい話がない」というものに通じるのではないかという気がします。というわけで『文芸的な、余りに文芸的な』も読んでみることにしました。

それにしても『贋金づくり』が出版されたのが1925年、芥川の『文芸的な、余りに文芸的な』が雑誌に連載されたのが1927年というのは不思議な符合ではないですか?日本とフランスで時期を同じくして二人の小説家が「純粋な小説とは」ということに着目していたことになるんですから。

『贋金づくり』の最初の邦訳がいつだったのかはちゃんと調べていませんが、ウィキペディアにあるのは1930年代のものでした。芥川がジッドを読んだのかどうかもわかりません。読んだ形跡があったらすごく面白いですよね。この後横光利一が日本で本格的に純粋小説を語ることになるんですが、それだって1935年のことです。

…という感じで私自身も自分の今までの知識からこんな妄想を広げたりしながら読みました。北村薫の『六の宮の姫君』もこういうお話でした。

文学部楽しいね…。